■部屋を選ぶポイント

では、具体的に部屋を選ぶ場合、どのようなポイントに注意すればいいのでしょうか? いつからいつまで、部屋が必要なのか?明確にしましょう。 期間によって、ウィークリーマンションがいいのか?マンスリーマンションがいいのか?選びましょう。どこのエリア(地域、沿線、駅等)で部屋を探したいのかを決めましょう。 ウィークリーマンション・マンスリーマンションは基本的に主要な都市の駅に近い場所にあることが 多いので、とても便利です。おおまかな、場所と期間が決まったら、部屋の賃料、公共料金(電気/ガス/水道)、クリーニング代金(または、保証金)など合計で いくらいくらかかるのか、把握しておきましょう。借りたい部屋が決まったら、その部屋には何がついているのか(家具・備品・設備など)確認しましょう。不明な点がクリアになれば、いよいよ、 契約です。契約の流れに関してはこちらをご覧下さい。 FXにはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治したが、15世紀後半までには全域がオスマン帝国の支配下に入る。それとともに大半のボゴミル教徒はイスラムに改宗し、他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16〜17世紀には、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネチア共和国と戦争を行った際に、ボスニアは重要な前哨基地としての役目を果たしている。 19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。1875年にボスニア蜂起が起きると、この反乱を口火として露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義、ロシアの汎スラブ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。 FX 取引、サン・ジェルマン条約によりオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。その後、ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアとヘルツェゴビナが統合され、ユーゴ連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナが誕生した。 1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言すると、ボスニア・ヘルツェゴビナは同年10月に主権国家宣言を出した。しかし、そのことに対してイスラム教徒のボシュニャク人(血統や言語はセルビア人、クロアチア人とほとんど同じだが宗教が違う)・ローマ・カトリック教徒のクロアチア人と東方正教会のセルビア人の間で対立が深まった。翌1992年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票による独立を決め、3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。それに対し、セルビア人は5月にスルプスカ共和国の樹立を宣言し、ユーゴ連邦軍も介入したことで、本格的な内戦(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)に突入した。各民族は互いの領土伸張を巡って激しい戦闘を行ない、当時は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほどだった。その後、1994年のNATOによる制裁空爆を経て、1995年に国際連合の調停で和平に調印(デイトン和平合意)。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の連合国家となり、以後は民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊,SFOR)が担当し、停戦監視下に置かれ、治安も回復した。 2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの改善された治安を考慮し、SFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からはEUの部隊である欧州連合部隊 アルテア(EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。EUFOR Altheaは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点では約2,200名となっている。 FX、国家元首は大統領評議会議長であり、議長はボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の各民族代表が8ヶ月ごとに輪番で就任する。 ボスニア・ヘルツェゴビナには、デイトン和平合意に基いて、国際社会の監督機関として主要国の代表者からなる和平履行評議会(PIC)が設置され、同評議会の下に上級代表事務所(OHR)が置かれている(コソボにおける国際文民事務所(ICO)に相当)。上級代表事務所の長は上級代表(HR)であり、デイトン和平合意を実施するに際して必要と認められるときは、直接立法権、人事介入権を含む強力な内政介入権(「ボン・パワー」)を発動できる。経済的には、オスマン帝国の支配時代から農業に大きく依存する貧困な地域であり、ユーゴスラビアの成立後もマケドニア共和国に次ぐ経済後進共和国であった。穀物栽培に適当な土壌が多いことから、かつては豆・タバコ・ザクロ・ぶどう・オリーブ・イチジク・メロンなどの農作物が栽培され、主要な羊の飼育地でもあった。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の影響から、農耕地の多くが現在 使用できなくなっている。 現在の主要産業は林業、鉱業、繊維業などであり、GDPは70億ドル(2004年)、一人当たりにして1,732ドルである。林業では松・カヤ・ブナなどが産出され、鉱業ではボスニアで大理石・建築用の石材、及び鉄・石炭・銅・マンガン・鉛・水銀など多様な鉱物が、ヘルツェゴビナではアスファルト・褐炭がそれぞれ生産される。しかし、失業率は48%(2006年現在)とヨーロッパの中でもトップクラスであり、特に若年層の失業とインフォーマル経済による景気低迷が課題である。 1992年の独立後、ボスニア政府はユーゴスラビア・ディナールに代わる独自の通貨の導入を決定した。しかし、ボスニア内戦時にはボシュニャク人支配地域ではボスニア・ディナール、セルビア人支配地域ではユーゴスラビア・ディナール、クロアチア人支配地域ではクーナがそれぞれ使用され、統一通貨の実施は遅れた。1998年1月、ボスニア政府は新通貨として兌換マルクを発表し、現在に至っている。 住民はボシュニャク人が48%、クロアチア人が14%、セルビア人が37%などである。 それぞれの民族の差異は宗教と歴史的経緯によるものであって、血統(南スラヴ人)や言語(セルボクロアチア語)の面ではあまり差が無い。 元々この地域には、ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が概ね拮抗する割合で暮していた。その為、ユーゴスラビアが連邦制を実施する際、他の5つの共和国は主要民族に基づいて樹立されたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナは地域を基礎として樹立された。 言語は、公用語がボスニア語、クロアチア語、セルビア語である。各言語の違いはあまり大きくなく、方言程度のものである。これらの言語は、かつてセルボ・クロアチア語と呼ばれてひとくくりにされていた。ただしセルビア語はキリル文字、クロアチア語とボスニア語はラテン文字を用いる。 宗教は、ボシュニャク人がイスラム教、クロアチア人がローマ・カトリック、セルビア人がセルビア正教会である。 ボスニア・ヘルツェゴビナには世界遺産が二つある。モスタルにあるスタリ・モスト(古い橋)の周辺と、ヴィシェグラードのソコルル・メフメト・パシャ橋で、ともに橋を中心とする世界遺産である。